文京区本郷の漢方 高島堂薬局

東京で漢方薬なら文京区で明治二年から続く本郷三丁目の高島堂薬局 不調を感じたらご相談下さい

高島堂薬局の歴史

森鴎外先生もご贔屓の一人だった、本郷の漢方薬局

高島堂薬局は「東京都文京区本郷」にあります。
本郷という土地は、昔から沢山の文士や学者が住まい文化の中心として栄えてきました。
また、漢方の大家と謂われる先生方も多く居住していた土地です。
東京大学に隣接しており、現在では先生方、学生さん、職員の方々も多くお見えになります。
昔は森 鴎外先生もご贔屓の一人であったことが、娘さんである森茉莉さんのエッセイ「白木蓮、有名好き」の中にあります。
森鴎外先生のカルテは戦前まで残っていたようですが、東京大空襲で焼けてしまい残念ながら現存はしておりません。

明治2年創業 高島堂薬局の歴史はここから始まりました

当時、浅草の薬問屋である山田屋に奉公していた番頭の高島 文蔵(初代)が、中山道(現在の本郷通り)の現在地に暖簾を分けてもらったのが始まりです。

その頃の中山道は、神田のめがね橋(万世橋)から板橋まで乗り合い馬車が往来して人通りも多く、薬と言えば殆どが漢方薬(生薬)の時代でしたから、遠くから馬をとばして来る客などもあって、店頭は創業以来にぎわっていたようです。

ちなみに明治16年に出版された「東京名家繁昌図録」には、明治初期に繁昌していた店の一つとして「薬舗山田屋:高島 文蔵」が紹介され、当時の繁昌ぶりが店舗全景の銅版画として描かれています。
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    創業時の高島堂薬局(東京名家繁盛図禄より)

明治33年 当時の高島堂薬局は、モダンな外観が印象的でした

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    また、当時の資料として、明治42年に店舗前で撮影した記念写真があります。
    この写真の建物は明治33年の市区改正にともなって、中山道が拡巾された際に改築したもので、戦前まではこの姿をしておりました。

    間口5間、奥行5間の大変モダンな造りは順天堂医院を建築した棟梁の手によるもので、関東大震災の時に焼けもせずヒビひとつ入らず残ったことが棟梁の自慢話のタネでした。

昭和20年 戦争で全てを消失した後、昭和23年に再建しました

  • 高島堂薬局の歴史

    この広告は東京大学の図書館に保管してあった当時の薬局の広告です。
    漢方薬以外でも理化学機械や衛生材料、医療機器なども販売していたことがわかります。
    初代 高島 文蔵の業績は極めて順調だったようです。

    しかし、文蔵は子宝に恵まれなかった為に、同じ山田屋の第二番頭だった浅野 安太郎(妻くに)を夫婦養子に迎え、高島 安太郎(二代目)として後継者にしました。
    三代目 浅野 正義の両親です。

やがて初代 高島 文蔵夫妻は、関東大震災を前に相次いで亡くなりました。
その上二代目の浅野 安太郎までが、長男 正義がまだ10歳の時に亡くなるという不幸が続きました。
三代目 浅野 正義は母親 くにの苦労を見て育ちました。
多感な青春時代と戦災の無念を次のように回想しています。

「私の母は早くから夫を失い、薬局を女一人で切り回す大変さのためか病気がちでした。」
「母親の細々ながらの働きで、昭和9年東京薬学専門学校(現在の東京薬科大学)を卒業したとき、希望していた学問の道を断念しました。否応もなく薬局を引き継ぐような運命になっていたのです。」
「初代 高島 文蔵が建てた高島堂薬局自慢の建物は、昭和10年に改装しましたが、昭和20年3月10日の大空襲で商品家財もろとも全部灰になってしまいました」、、、

途方に暮れるいとまもなく、戦後疎開先の茨城県から焼け野原の本郷へ戻った浅野 正義は早速店舗再建に着手し、昭和23年春、元の場所に再建を実現しました。
物のない時代に山形県出身の家具屋さんに土地の半分を提供し、交換条件として建材の提供を受けるという等価交換方式を採ったため店舗の間口は狭くなりましたが、これが高島堂薬局を再建する出発点となりました。

現代の漢方の発展に、三代目店主 浅野 正義が貢献しました

漢方の製剤基準は、厚生省(現在の厚生労働省)が昭和45年から47年の間に承認基準として内規を示し、それに準じた形で一般用としてふさわしい処方を210処方選んだものが現在も受け継がれています。一般用漢方製剤承認基準(いわゆる210処方:現在は236処方)です。

この厚生省内規を策定するにあたって、昭和45年に厚生省薬務局製薬課(岡浩策課長)の元に「漢方打ち合わせ会」が発足し、「傷寒論」「金匱要略」「和剤局方」などの古典や、その当時の漢方関係の成書を元に準備された632処方から、現在の210処方の原型が出来ました。

その後、中央薬事審議会の中に漢方生薬製剤調査会が立ち上げられ、選定した210処方の効能効果、分量、用法の原案が作られました。現在、医師の用いる医療用漢方製剤は、一般用漢方製剤基準の中から、効能効果などをそのまま医療用へと転用したものです。

漢方打ち合わせ会のメンバーは
大塚 敬節 先生(修琴堂大塚医院)
西本 和光 先生(旧国立衛生試験所)
菊谷 豊彦 先生(三楽病院)
そして、私ども高島堂薬局の三代目 浅野 正義の4人でした。

この4人の経験と知識が、後の日本に於ける漢方薬の制度を方向付ける事になりました。そして、一般用漢方製剤基準が出来たことで、明治以降長らく暗い時代を過ごした「漢方」という言葉自体が表舞台に姿を現しました。そして、その基準を元に昭和52年の漢方薬エキス製剤の薬価基準収載が行われ、再び漢方薬が医療制度の中で正式に日の目を見ることが出来たのです。

いま80%以上の医師が何らかの形で漢方を用いていると言われていますが、この様に医療制度の中に漢方が据えられ発展した礎を築く重要な役割の一端を、高島堂薬局で担うことが出来たことは薬局の伝統にも喜ばしいことだと言えます。
三代目 浅野 正義はその後、都知事賞などを受賞しながら、晩年まで多数の弟子を育てました。
  • 中央薬事審議会の様子(奥中央が浅野正義)

    中央薬事審議会の様子(奥中央が浅野正義)

四代目の雨宮 昌男は、東洋医学を取り巻く環境の改善、
薬剤師職能の向上のために奔走しました

浅野 正義の長女の娘婿である雨宮 昌男は、京都大学経済学部卒業後、協和銀行(現りそな銀行)に入行しましたが、結婚を機に高島堂薬局を継ぐために、三十にして東京薬科大学の門を叩き、薬剤師となりました。
故 荒木 正胤先生や岳父 浅野 正義より漢方の手ほどきを受け四代目店主となります。

雨宮は、漢方の将来を憂い、薬剤師の将来を憂い、その地位向上のために奔走します。
漢方とは本来、古代中国医学が時間をかけて日本に土着化した日本独自の医術といえますが、現代中医学の流入などによる日本医学の衰退を危惧し、古方の存続を訴えます。

また、東京都薬剤師会薬局委員長などを歴任し、地域の薬剤師会会長なども兼務しながら患者の治療にも当たり、多忙な生活を続けます。

また、医療制度の中の東洋医学に対する扱いや国産生薬衰退をいち早く危惧し、日本薬剤師会学術大会などで十数年前から発表を繰り返しました。

現在、やっと国産生薬の取り組みが本格化してきましたが、鋭い洞察力で現在の状況を予見し、様々な発言をしてきました。
東洋医学のみならず、幅広い功績から平成23年秋の叙勲で「旭日双光章(きょくじつそ うこうしょう)」を拝受致しました。

そして、漢方を新しい世代へ引き継ぐ爲に高島堂薬局は進化を続けます

生薬価格の高騰や、ISO(医療の国際標準問題)など日本の東洋医学を取り巻く環境は年々厳しさを増しております。この難局に打ち勝つべく高島堂薬局も新たな時代を迎えています。
これから100年続く薬局を作るため、雨宮は番頭である戸田に店の経営を任せ、相談役に退きます。

新しく舵取りを任せられた戸田は、どうしても負担が偏りがちだった相談体制を見直し、複数の薬剤師で症例を検討しながら相談する現在の業務形態としました。
また講師として薬局内での頻繁な勉強会を行い、その都度臨床現場での「治す術」を伝えています。
そして、東洋医学に従事する他業種の先生方と連携を深めながら、一人の患者を多面的に診る試みを行っています。

学術面では、高島堂薬局の師匠にあたる故荒木 正胤先生の講義録を作成するなど、古い伝統を保存、復興する活動を続けています。

また、薬局として薬学生の受け入れや、登録販売者への漢方講習、書籍への執筆など漢方に対する啓蒙活動を 行っています。

そして、今も変わらず老舗漢方相談薬局として、
同じ本郷の地で営業を続けております。

  • 中央薬事審議会の様子(奥中央が浅野正義)

    現在の高島堂薬局

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